「邪気が盛んであれば必ず実」とは限らない(改訳版)瞿岳雲著

虚証と実証について

 著者は瞿岳雲氏で、1990年11月発行の中医理論弁(湖南科学技術出版社)の中にある67の「問題提起と分析解明」のうちの一つです。本論では、虚実および虚証と実証の問題を比較的詳細に検討分析されています。日本漢方では、虚実の問題がかなり曖昧であるの対して、中医学ではここまでの考察がなされ、検討されいることに注目する必要があるでしょう。
 もともと東洋学術出版社発行の季刊『中医臨床』誌1993年3月通巻52号に翻訳掲載したものの一部改訳と訳者のコメントです。
 なお、訳文中の括弧のうち、〔・・・・〕は、訳注と断らない場合でも、いずれも訳者、村田恭介による注釈や補足となっています。


 虚証と実証は、臨床上で「補・瀉」の治法を決定する根拠であり前提条件であるから、中医学の「八綱」における二つの最も基本的で重要な概念である。
 ところで、「虚証」と「実証」の概念はいかなるものであろうか? 歴代の医家、ひいては今日の中医学教材の編著者が若干の論述をおこなっているものの、基本的にはいずれも『素問』通評虚実論篇の「精気奪すれば則ち虚、邪気盛んなれば則ち実」とされる理論に解釈を加えたものばかりである。たとえば、1978年に10カ所の中医学院が合同で編纂した『中医学基礎』(上海科学技術出版社発行)では「虚とは正気の不足を指し、虚証とは正気不足を示す証候である。実とは邪気が非常に盛んなことを指し、実証とは邪気が非常に盛んなことを示す証候である」とし、現行の1984年5版『中医診断学』の教材でも、この説を踏襲している。しかしながら筆者の見解では、上記の理論は全面的ではないと考えている。


 第一に、虚と実は広範囲に適用される相対的な概念であり、決して「証」についてのみに使用される用語ではない。任応秋先生のご見解では、虚実という一対の概念は、中医学においてすくなくとも次に記す七種類の異なる意味があるとされている。
 @正気の盛衰にもとづいて虚実に分ける場合。訳者注:現在の日本漢方の虚実の概念に近い〕
 A邪盛と正衰にもとづいて虚実に分ける場合。訳者注:現代中医学における虚実概念の最も代表的なもの〕
 B病態か病態でないかにもとづいて虚実に分ける場合。
 C病変の軽重にもとづいて虚実に分ける場合。
 D寒熱にもとづいて虚実に分ける場合。
 E病変のタイプによって虚実に分ける場合。
 F風邪のやってくる方位にもとづいて虚実に分ける場合。
 それゆえ、任応秋先生は「中医学で使用される虚実の意味は大変広く多方面を包括しており、正気に虚実があり、邪気に虚実があるのだから、病変・病証の中には必ず虚実があり、『素問』通評虚実論篇の『邪気盛んなれば則ち実、正気奪すれば則ち虚』の二句だけで虚実のすべてを概括することはできない」と述べられている。
 「証」に関していえば「虚証」も「実証」も疾病状態に現れる証候の概括である。「虚証」と「実証」における虚実は「証」の虚実を指し、正虚と邪実を指すものではない。両者の関係は密接ではあるが、虚実の概念は異なっている。
 正気という概念には、それ自体の意味と適用範囲があり、人体の疾病に抵抗する能力の総合的な概括である。邪気というもう一つの概念にも、それ自体の意味と適用範囲があり、内外のあらゆる発病因子を指している。


 しかしながら、疾病の発生は正気と邪気の闘争であり、「証」という新たな概念で表現されるため、「虚証」「実証」における虚実の意味と適用範囲は「正気」と「邪気」の概念とはもはや異なるものとなる。つまり「証」の性質(虚か実か)は、正・邪の闘争の対立状態が示すパターンによって決定されるものである。それゆえ「証」の概念で虚実を論じるとき、正・邪のどちらか一方を欠くと邪正闘争の対立関係が成り立たないため、「証」を構成することができない。つまり、正・邪の一方だけを取り出して論じてはならないのである。
 どのような疾病が生じた場合でも、正邪の闘争が現れ、正と邪は不可分の対立関係にある。対立関係の激しさの程度により、激烈・亢盛である場合を実証と称し、これとは逆の場合が虚証である。「証」が生まれること自体、生体が疾病に反応している状態にあることが前提となっているのだから、「正気が奪すれば則ち虚」と「邪気盛んなれば則ち実」のみによって虚証・実証の概念を明らかにしようとするのでは全面的とはいえないのである。
 日本の丹波元簡は「邪気が人身に客した場合、そのはじめは必ず精気の虚に乗じて侵入し、侵入した後に精気が旺盛となり、邪とともに盛んな場合が実で、傷寒胃家実の証がこの例である。邪が侵入して客し、精気がこれに抵抗することができず、邪気によって〔精気が〕奪われる場合が虚、傷寒の直中がこの例である」と述べているが、「虚証」と「実証」の相互の関係をかなり的確に解説したものといえる。


 第二に、実際の臨床実践から考えると、気血・陰陽・精髄・津液などが損傷・不足した「精気の奪」の状態では、必ず生体の抗病能力の減退を引き起こし、正気不足により邪正闘争における生体の反応性が低下して虚証が生じるということである。
 実証が生じるのは邪気と正気の激しい闘争を示すものであるから、「邪気が盛ん」でさえあればすべて実証を生じるとは限らず、邪正闘争における力関係の強弱によって決まるものである。邪気が盛んで正気も盛んという生体の反応性が強い状態では、邪正闘争は激烈であり、この時に生じる証候は実証である。ところが、邪気が極めて盛んであり、邪と正の力がかけ離れているてめに正気が抵抗しても無力である場合、あるいは正気が邪気によって速やかに消耗・損傷されて生じる証候は、大抵の場合が実証ではなくて虚証である。
 邪気が盛んなために生じる実証は、邪熱壅肺証・腸道湿熱証・陽明腑実証・気分証などのように、大変よくみられるものである。一方、邪気が盛んなために生じる虚証も、臨床上よくみられるもので珍しいものではない。流行性髄膜炎に現れる悪性電撃性髄膜炎菌性菌血症など、中医学における春温亡陽証などでは、発病の初期に高熱・頭痛・項部の強張り・噴射性の嘔吐などを生じ、熱邪の毒力が強すぎると正気が邪気に勝てないために気力がなくなる・四肢の厥冷・流れるような発汗・体温の下降・血圧の低下・脉は微で途絶えそういなるなど、急速にショック状態が発生して一連の亡陽による症候が出現し、重篤な場合では発病の初期から一連の亡陽の症候が現れる。また、急性化膿性胆管炎・大葉性肺炎などの急性感染性疾患では、邪気が盛んなために、しばしば亡陽による虚証が現れる。以上のように、邪気が盛んであれば実証を生じるのみならず、虚証も生じるものなのである。
 しかしながら、邪気が盛んなために生じる虚証と、「精気の奪]〔精気の不足〕により生じる虚証とは一定の違いがある。精気の奪により生じる虚証の多くは内傷に属し、発病が緩慢で疾病の経過は比較的長期にわたる。たとえば腎陰虚証では、長期間の過剰なセックスや慢性疾患による傷腎によって生じることが多く、脾肺気虚証では慢性的な喘息・咳漱から肺気を消耗・損傷し、飲食の不摂生から脾気を損傷して生じることが多く、病状が次第に悪化して行くことが多い。


 一方、邪気が盛んなために生じる虚証の多くは、病邪の内侵により急に発病し、疾病の経過は短くて急速に変化し、病勢は険悪でしばしば病状に急速な悪化がみられる。緊急治療が間に合わなければ虚から竭に至って死亡する。したがって、治療の上からも二者には違いがある。精気の奪により生じた虚証では「損するものは之を益す」の原則にもとづき、虚損の内容に応じて補気・養血・滋陰・温陽・生津・気血双補・陰陽双補などの適切な補法を施し、弁証が正確であれば次第に奏効することが多い。
 しかしながら、邪気が盛んなために生じる虚証の治療法は特殊で、「実なれば則ち之を瀉し、虚なれば則ち之を補う」といった原則の適用では完全とはいえない。これを一般的な虚証とみなして補法だけを行うのでは邪が除去されないため、虚証を引き起こした病因を除去することができず、病因が除去されなければ補法はまったくの無駄となる。その逆に、袪邪だけで補虚救逆を行わなければ、病邪を除去しにくいばかりか、正気も回復させることができない。
 この場合の治療法としては、発病原因を除去するばかりでなく、同時に虚竭した正気を扶助しなければならない〔訳者注:正虚邪実に対する攻補兼施に該当する〕。たとえば、前述の春温の亡陽証では、単に清瘟敗毒飲で清熱解毒を行うだけでは不適切であり、また四逆湯類で回陽救逆を行うだけでも不適切で、これら二法を結合・応用してはじめて臨床の実際にマッチし、治療の目的を果たすことが出来るのである。〔訳者注:邪気が盛んなために生じる虚証の治療法は、決して上記の方法のみに限るものではなく、「標本緩急の常と変」を知って臨機応変に対処すべきであり、上記の方法のみにとらわれるべきではない。〕

 参考文献
(1)任応秋:『任応秋論医集』162頁(人民衛生出版社 1984年)
(2)呉元黔等:『貴陽中医学院学報』1980年第1号77頁。
(3)庄沢澄:『遼寧中医雑誌』1986年9号33頁。



     出典: 『中医理論弁』(湖南科学技術出版社)


訳者のコメント

 中医学における虚実の概念は、任応秋先生が指摘されたように多彩であるが、中でも臨床上で重要な意義を持つのが「A邪盛と正衰にもとづく虚実」である。すなわち正虚と邪実における虚実概念と、さらに疾病の発生という正気と邪気の闘争によって、はじめて構成される「証」の虚実を指すときの虚実概念である。このときの虚証・実証は、正虚・邪実との密接な関係があるものの、もはや虚実の概念がまったく異なっていることを明確に証明した論説である。
 臨床上で最も広範囲に運用される邪盛と正衰にもとづく虚実の概念にも、このような二つの異なった概念が内在していることを十分に認識しておけば、概念上の混乱を生じることなく、弁証における虚実を正確に判断し、論治における補寫の原則を運用する上で、虚を虚し、実を実するような誤治を避けることが出来る。
 なお、本論はNo.001で紹介した「邪の湊まるところ、その気は必ず虚す」に対する新解と密接に関係した論説であり、この二つの論説が互いに補い合い、虚実の問題に関した臨床上、極めて重要な部分が網羅される構成となっている。