「邪の湊るところ、その気は必ず虚す」の新解 (改訳版)瞿岳雲著

 著者は瞿岳雲氏で、1990年11月発行の『中医理論弁』(湖南科学技術出版社)の中にある67の「問題提起と分析解明」のうちの一つですが、次のNo.002の『「邪気が盛んであれば必ず実」とは限らない』と密接な関係を持った論説です。虚実および虚証と実証の問題を論じるとき、常に本論とともに重要文献として長く日本の漢方界に伝え残しておきたいものと愚考します!
 もともと、東洋学術出版社発行の季刊誌『中医臨床』1992年9月通巻50号に翻訳掲載したものですが、直訳過ぎて意味が把握しにくいところを意訳に変え、誤植によって意味不明となっている個所の訂正等、かなりな改定作業となりました。
 なお、訳文中の括弧のうち、〔・・・・〕は、訳注と断らない場合でも、いずれも訳者による注釈や補足です。


 「邪の湊(あつま)るところ、その気は必ず虚す」(『素問』評熱病論篇)は、中医発病学理論において常用される専門用語で、人体が疾病に罹患する条件を説明するときの経典における理論的根拠である。ここでの「気」は正気を指し、「虚」とは正気の虚を指していることは周知の通りである。
 問題は「虚」に対する解釈であり、大多数の医家は正気虧虚の方面にとらわれているが、詳細に吟味すると、疾病の生じたところには必ず虚と実があり、「邪気盛んなれば則ち実、精気奪すれば則ち虚」(『素問』通評虚実論篇)であるから、その方面だけの解釈では十分に意を尽くしていることにはならない。「精気奪」とは広く正気が奪われることを指すのであるから、もしも邪が湊るのはすべて正気不足による、というのであれば、病が生じた場合はみな虚証ということになってしまうではないか!
 しかしながら、これは臨床の実際と合致しないことは明白である。このため、「その気は必ず虚す」の「虚」の字をどのように正確に理解するかがキーポイントとなる。「その気は必ず虚す」の「虚」の字には、@整体の虚・A局部の虚・B一時的な虚、などの意味が含まれているのである。
 @整体の虚とは、人体の陰陽・気血の一方面あるいは両方面における陰虚・陽虚・気虚・血虚・陰陽両虚・気血両虚などの全身性虚弱を指す。『内経』の中の「精脱者」「津脱者」「液脱者」「血脱者」「形不足者」「精不足者」「陰気虚」「陽気衰」などはみな、整体の虚の範疇に属している。整体の虚をもたらす原因は、(1)先天的に生まれながらの不足、(2)後天的な保養不足、(3)疾病による損傷、(4)年齢的な老衰、などである。
 A局部の虚とは、整体のある部分・ある臓腑・ある経脉などの虚弱を指す。肺気虚・脾陽虚・心血虚・肝陰虚・上虚・下虚・経気虚などがそれに相当する。局部の虚によって整体の虚を引き起こし得るもので、また整体の虚も局部の虚に影響が及び得るものである。
 B一時的な虚とは、過労・過食・精神的なストレスなどの様々な原因により、生体の機能が乱れて抗病能力が一時的に低下したものである。『霊枢』邪気臓腑病形篇において、「人に中(あた)るや、まさに虚の時に乗ず。新たに力を用い、若しくは飲食して汗出づるに及んで、腠理開きて邪に中るなり」とあるように、『内経』では人体に邪気が侵入する原因は整体の正気不足だけではなく、力仕事・過食などにより発汗して腠理が開き、邪気が腠理の一時的な弛緩に乗じて侵入する場合もあることを明確に指摘している。『素問』五臓生成篇に「臥して出ずるに風これを吹き、血(が)膚に凝るは痺となす」〔訳者注:起床したばかりのときに風邪に侵襲されると血液が凝滞するが、皮膚に凝滞した場合は痺証を生ずる〕とあるが、人は横臥すると陽気は内に集まるので、起床した時点では衛気がまだ肌表に戻らず肌表は一時的に失固しており、風邪がこの機に乗じて人体に侵入したために痺証が発生するのである。『素問』水熱穴論篇には「勇にして労すること甚だしければ則ち腎汗出づ。風に逢えば内は臓腑に入ることを得ず、外は皮膚を越ゆることを得ず。玄府〔毛孔〕に客し皮裏に行き、伝えて腑腫をなす。これ腎に本づく。命して風水と曰う」とあるのは、激しい労働により汗が出て、衛気の機能が一時的に失調したために風邪が人体に侵入したものの、臓腑は虚していないので邪気が裏に入ることが出来ない、というものであるが、「その気は必ず虚す」には生体の機能の一時的な乱れの意味が含まれるべきことを示したものである。それゆえ、一時的な虚も「その気は必ず虚す」の一つの解釈として把握しておくことは不可欠である。


 臨床の実際面を考えても、このようなケースが存在しており、たとえば『傷寒論』の太陽病における「太陽中風証」を「太陽表虚証」とも称しているが、この場合の「虚」は衛気の機能が一時的に虚弱となったことを指しており、整体の正気虚損を指したものではない。そうでないとしたら、仲景はどうして補虚扶正の人参、附子などによって整体の虚を培補しないので、実を治する方法である桂枝湯を用いて辛温発汗による治療を行ったものであろうか。このように、邪が湊ってはいても全身的な整体の正気虧耗を生じているわけではないのである。
 「その気は必ず虚す」の意味を、正気不足と一時的な機能の乱れ〔の二方面〕として理解すれば、経文の主旨にかなうばかりでなく、臨床指針となる虚実弁証および補瀉の治療原則を運用する上で重要な意義をもつようになる。一般的には、正気不足により邪が湊って発病する場合は虚証を呈することが多く、治療は補虚を主とすべきであり、一時的な機能失調により邪が湊って発病する場合は実証を呈することが多く、治療は袪邪を主とすべきである。もしも、「邪の湊るところ」はみな正気不足であるとの論にとらわれていると、病には実証の病があり、瀉法をもって治療するという客観的な事実を説明することが難しくなる。
 さらに、もう一歩詳細に検討すべき問題として、「邪の湊るところ」と「その気は必ず虚す」の関係がある。つまり、邪の湊りが正気の虚を引き起こすのか、正気の虚がじゃの湊りを引き起こすのか、いずれが原因でいずれが結果であるかの問題である。歴代の医家の多くは、正気の虚によって病邪の侵犯を誘発し、「邪の湊るところ」は「その気は必ず虚す」ことによって生ずるものであると認識している。たとえば、張景岳は『類経』の中でこの経文に注記して「邪は必ず虚に因りて入る。故に邪の湊るところ、その気は必ず虚す」と述べている。現行の教科書でも、この説を踏襲しており、全国高等中医院校試用教材の『内経選読』(北京中医院主編)では、「邪が侵犯する場所は、必ずその場所の精気の虧虚が先行する」と解釈している。人体の正気の虚が先行するからこそ、はじめて病邪が侵犯できるようになる、というわけである。


 しかしながら、決してそうとばかりはいえず、「邪の湊るところ」と「その気は必ず虚す」の関係をこのように考えるばかりでなく、病邪の侵犯によってはじめて正気の虚が引き起こされる場合があることを知っておく必要がある。「邪の湊るところ」は、すべてが「その気は必ず虚す」ためや、虚の先行によるものばかりでなく、正気は虚していないのに邪が湊って病を生ずる場合もある。どうしてそうなるのであろうか?
 一般的な状況では、人体の正気が亢盛していれば、邪気の侵害による発病は生じにくいことは容易に理解されるが、正気の機能や抗病能力に一定の限界があり、たとえ正気が虚していなくとも、邪気が猖獗をきわめ、人体の抵抗し防御する能力を上回る場合にも、生体を侵犯して疾病が発生し得るのである。韋協夢が述べたように、「正気がたまたま不足したときに、邪気が侵犯しやすい」のであるが、また「真気がもともと足りていても、外感が強烈」な状況もある。癘気による発病のように、呉又可(ごゆうか)が『温疫論』原病の中で、「疫は天地の癘気に感ず。………この気の来るや、老少強弱を論ずること無く、之に触るる者は即ち病む。邪は口鼻より入り」とあるが、これを敷衍すると病因学における、金属質の刃物による外傷・打撲による損傷・禽獣による咬傷・電気や火傷による外傷などで生じた疾病では、これらの「邪」の湊るところは正気の虚が先行したためであるとはいい難いのではなかろうか。人体は決してあらゆる疾病に抵抗し防御することが出来るような「正気」がそなわっているわけではない。それゆえ、『内経』では旺盛な正気を保持して病邪に抵抗・防御するばかりでなく、同時に常日頃から「虚邪賊風」〔異常な気候〕の侵害を予防すべきことを強調し、「虚風賊邪は、之を避くるに時あり」「外は事に労せず」「陰陽を和し、四時を調う」など、病邪を防御する方法を提示しているのである。


 『内経』では、邪の湊りが先行することによって正気の虚を引き起こすケースに関した論述が少なくない。『素問』痺論篇に「飲食自ら倍(そむ)き、腸胃乃ち傷る」とあり、『素問』経脉別論篇に「飲食飽くこと甚だしければ、汗(が)胃より出づ」とあるのは、暴飲暴食して正常な消化能力を超えると、たと脾胃の機能が健康で旺盛な人の場合でも損傷を受けることを指摘したものである。
 『素問』疏五過論篇には「暴(にわ)かに楽しみ暴かに苦しみ、始め楽しみ後に苦しむはみな精気を傷る」とあり、感情の激しい昂ぶりは病邪となって正気を損傷するもので、決して正気の虚が先行しているものだけが情志による損傷を受けるわけではないことを述べている。
 『内経』ではまた、常日頃からの労働により、気血を流暢にして体力を増強すべきであるとしている。しかしながら、「形は労して倦まざる」べきであり、体力を超えて労働しあり、あるいは過度に気を使ったりすれば耗気傷血するので、「病を生ずるは過用により起こる」(『素問』経脉別論篇)といわれるのである。「夜行けば則ち喘は腎より出づ」「体を揺るがし労苦すれば汗は脾より出づ」(『素問』経脉別論篇)、「久しく視れば血を傷り………久しく行けば筋を傷る」(『素問』宣明五気論篇)などがこの例に属する。「風雨寒暑、陰陽喜怒、飲食起居、大驚卒恐」により「血気は分離し、陰陽は破敗し、経絡は厥絶し、脉道は通ぜず、陰陽は相逆し、衛気は稽留し、経脉は虚空となり、血気は次せず、すなわちその常を失う」(『霊枢』口問篇)ことになる。これらの正気の虚は、病邪の湊りが先行して後に傷害されたためであり、必ずしも正気の虚が先行してはじめて邪が湊るわけではないことを、さらに明確に述べたものである。
 要約すると、「邪の湊るところ」は「その気は必ず虚す」ことによる場合が通常で、その病証は虚であることが多く、また「その気は不虚」であるのに「邪の湊るところ」となって発病する場合は変則的なことで、その病証は虚の場合と、実の場合があり、虚証であるのか実証であるのかは、邪気の盛衰・正気の強弱によって決まる。それゆえ、「邪の湊るところ、その気は必ず虚す」を理解するのに、正気の虚が先行してはじめて邪が湊り、そのためにいずれの場合も虚証を形成する、などと大雑把に考えてはならないのである。


参考文献

劉家義:『山東中医学院学報』1985年第2号60頁



     出典: 『中医理論弁』(湖南科学技術出版社)