雑 書 放 蕩 記 (谷沢永一著)  新潮社

漢方医学関連書評集 > 漢方と漢方薬の誤解!

 1996年7月発行で、当時の定価は1,500円(本体1,456円)となっています。


 本書『雑書放蕩記』の著者谷沢永一先生は、私が心から敬愛し、私淑する現代人の一人です。
 あらゆる分野に口出しして、しかも辛辣な評論が大好きです。谷沢先生の「蒐書六十年、その数二十余万冊」と本書の帯にも書かれている通り、私の蔵書のちょうど四倍ですが、その知識は百倍もの開きがあるようです。

 それもともかく、一部繰り返しにはなりますが、帯の表には「本は私にすべてのことを教えてくれた―。蒐書六十年、その数二十余万冊、稀有の読書人が熱いこころで描く感動の読書自伝。」とあるのです、蔵書数においても、これだけ上には上があるものだと、ため息が出てしまいますが、医学・薬学書はけっこう高額なものが多いのだから、実際には比較するのは無理かもしれません。

 裏表紙の帯には「戦中戦後の混乱期にあって、家にいれば読書、外に出れば古本屋巡り……。
 小学二年生の時の最初の一冊『プルターク英雄伝』から、大学院生時代に感銘を受けた内藤湖南『先哲の学問』まで、39冊の思い出の書を通し、若き日の読書遍歴を回想。」とありますが、折々に出没する鬱病にもめげず、若き日の開高健との交流を交え、互いに切磋琢磨する美しき青春の日々!

 あの谷沢先生もやはり人の子だったのか、と当たり前のことに感激する村田恭介であります。

 本に無縁な人でない限り、本書を読めば現代では「死語」ではなくて「腐語」と成り下がってしまった「教養」というものを、あらためて再認識せざるを得なくなるはずです。

 「本というものは、背表紙をながめているだけでも素晴らしい教養になるものだ!」と叫んだのは、かのトンチンカンの村田恭介氏ですが、実に迷言であります。

 ともあれ、これだけ博学多識の谷沢先生、画竜点睛を欠くとしか言いようのない、大妄言を何冊もの書籍で繰り返し述べられていることがあるのは、実に残念としか言いようがありません。

中国漢方を発展、集大成したのは日本の漢方医」(「広辞苑の嘘」)などと自信満々です。
 「今ある漢方はシナ医学の成果ではない。漢方は日本で発達しました。シナ医学は医学レベルとしては低く、薬は生薬をそのまま比較的単純素朴な用い方を行いますが、日本の場合はそれを症状に合わせて幾重にも組み合わせて処方する。その日本独自の処方を漢方と呼ぶ。

 おおっ!わが私淑する師匠よ!なんてバカことをおっしゃいますか!ああ〜師よ!師よっつ!これでは迷言家の村田氏よりもヒドイ妄言ではありませんか!
 と、叫んだところで、どうしようもありません。
 2002年に青春出版社から発売された『日本人の誇り』に書かれているものも同工異曲ながら、もっとひどいことに、私と同年代で同じ下関出身のK氏の著作『・・・・・・・・』(きっと谷沢氏が誤解されたに違いないから、K先生の名誉のために書名を敢えて書きません!)に書かれているとして、

 「漢方は支那のものではない。たしかに、薬草を探して来たのは支那人だが、彼らは薬学的に深く考えて処方することまではしなかった。それをやったのは日本人である。日本の漢方研究家たちは、それぞれの人の体質に合わせて漢方薬を組み合わせていった。江戸時代には、漢方が支那とは比べものにならないくらい発達した。」

 とあって、これがK氏のご高著『・・・・・・・・』に詳しく説いているとして、証拠として提出されているのです。

 たまたま私の所持しない書籍ですので、確認するわけにもまいりませんが、K先生!谷沢先生にこれ以上の妄言はおっしゃらないように、K先生みずからがおさとしになるべきではありませんか!?

 村田自身、谷沢永一氏の著書は、氏の国文学系の専門書も含め、ほぼ全著作を所持しており、その八割以上を読了しているほどの谷沢フアンだけに不安でしょうがないのです。
 他の領域では、あれほどの博学才頴ぶりを発揮なされるのに、こと漢方のことになると、まるで真っ逆さまのことを何冊もの御著書に書かれるのですから、ああっ!もはや絶句するのみ。

 上記の妄言以外では、村田恭介は谷沢先生を大変高く評価し、現世における師と仰いでいるだけに、実に残念でならないのであります。