阿蘭陀書房から大正4年に出版されたものは、白秋がみずから装丁したもので、村田が持っている大正五年九月の第五版の宣伝文句には、
「最も懐かしく愛誦すべき抒情小詩選 日本出版界を驚倒せしめたる空前の美本にして表紙は柔軟なる羊の皮に高華を極めしわすれなぐさの模様を描きたるもの。手触のなづかしさゆかしさ限りしられず。」
とあります。古書店で箱なしのものを3,000円で購入しましたが、これに箱でも付いていたら、初版でなくても1〜2万円以上はします。初版なら数十万円はするようですが、漢方と漢方薬関連および西洋医学・薬学などの書籍代に追われる私には没交渉の世界です。
もうひとつは、大正8年にアルスから出版されたものは、たぶんシルクと思われるこれもまた豪華な装丁です。出版社のアルスは北原白秋の弟さんが経営していましたが、堅牢な作りでシャレた豪華な本をたくさん出版しています。
私が所有しているのは、大正15年8月発行の第二十八版です。箱なしで2,000円くらいで購入した記憶があります。これも箱付きで初版本となると、阿蘭陀書房版の三分の二くらいの価格で売られているようです。
うっかりマニヤックなことばかり述べたようですが、この『わすれなぐさ』は、私の好きな上田敏の訳詩集『海潮音』のなかの「わすれなぐさ」にちなんで編まれた白秋の詩集であるからです。
すでに『海潮音』は、この「わが愛読書「海潮音」」で取り上げていますが、実は私自身、詩に対する趣味は比較的乏しく、心底から好きな詩集というのは、『海潮音』と土井晩翠の『天地有情』くらいのものです。
北原白秋の前半生は、とても伴侶ウンの悪い人で、大変な人生を歩まれながらも、家族を大事にし、とりわけ両親思いであり、弟にはアルスという出版社をさせるなど、同じ日本人として頭が下がります。その白秋さんが、上田敏の訳詩集のなかから、わざわざ「わすれなぐさ」を選んで自著の詩集の題名とし、しかも上田敏の訳詩を中心にした「はしがき」を書いているわけですから、愛着を持たざるを得ません。
「少年老い易し、麗人は刻(とき)を千金の春夜に惜む。われらがわかき日の小詩はまさに涙を流して歌ふべし。瑠璃いろ空のかわたれにわすれなぐさの花咲かばまた、過ぎし夜のはかなき恋も忍ぶべし。ここに選び出でたるはわが幼きより今にいたるあらゆる詩集の中より、ことに歌ひ易く調(しらべ)やさしき断章小曲のかずかず、すべてみな見果てぬ夢の現なかりしささやきばかり、とりあつむればあはれなることかぎりなし。かの西の国の詩人(うたびと)が
ながれのきしのひともとは
みそらのいろのみづあさぎ
なみことごとくくちづけし
はたことごとくわすれゆく。
と歌ひけむ。なにごともながれゆく水のながれのひとふれのみ。忘れえぬ人びとよ、われらが若さは過ぎなむとす。嘆かば嘆け。羊の皮の手ざはりに金の箔押すわがこころ、思ひあがればある時は、赤玉(ルビ)サフアイヤ、緑玉(エメラルド)、金剛石(ダイヤモンド)をも鏤(ちりば)めむとする、何といふ哀(かな)しさぞや、るりいろ空に花咲かば忘れなぐさと思ふべし。
大正四年四月 白 秋 識」
すべては、この「はしがき」にあり。
とは言え、鴨長明の『方丈記』が訴える同じ無常観でも、質を異(こと)にしていることはあきらかなのです。
『わすれなぐさ』の[四十六]
かなしかりにし昨日さへ、
かなしかりにし涙さへ、
明日は忘れむ、肥満(ふと)れる君よ。