脾湿についての考察

 ●寒湿困脾について

 寒湿困脾は、寒湿中阻とも称され、日常の臨床でしばしば見られる。

 病理的には寒湿の邪が内盛し、「中焦脾胃」という三焦の枢軸が困阻(阻遏)され、胃が痞えて苦しい・身体が重い・下痢・浮腫などの症状が発生したものである。

 脾は太陰湿土で、燥を喜(この)み湿を悪(にく)む。それゆえ、水遊び・雨に濡れる・湿気の多い場所に居住する・あるいは生冷物の過飲や過食などがあると、寒湿が内侵して中陽を困阻(阻遏)しやすくなる。

 とりわけ内湿がもともと盛んな者では、ちょっとした過飲や過食でも中陽が困阻されてますます寒湿が内生する。

 つまり、「太陰脾土」と「寒湿の邪」という同類は互いに招きあうので、容易に寒湿が脾にとりついてしまい、このために運化と昇降が失調して上述の諸症状が発生する。

 陳潮祖著『中医病機治法学』では、湿困脾陽や湿困脾胃という「実証」の病機に対応する平胃散証も、代表的な寒湿困脾として論じられている。

 しかしながら、寒湿困脾は「虚中挟実」の脾虚湿困に比較的接近し、胃苓湯あるいは香砂養胃湯などが適応する病態であるとする見方もあるので、注意を要する。

 たとえば、天津化学技術出版社の『臓腑証治』では、寒湿困脾においては水湿内停という寒邪を形成するものの、根本的な原因として脾虚の内在が前提条件であるとし、方剤例は胃苓湯と茵蔯四逆湯加減があげられている。

 さらに極端なものでは、脾虚湿困の別名が寒湿困脾であると記載する書籍もあるが、こればかりは錯誤としか思われない(たとえば人民衛生出版社刊『中医証候弁治規範』)。

 一般的には、脾虚傾向が顕著でない者が、過度な水遊びや水中作業・湿気の多い居住空間、あるいは暴飲暴食から脾陽が阻遏・損傷され、水湿内停を生じた急性症状では実証に属し、病機は「湿困脾陽」や「湿困脾胃」であり、平胃散類の適応となる。

 もしも寒邪が比較的顕著であったり、脾虚が内在して発病した場合でも実証に属する場合が多く、このときの病機こそが「寒湿困脾」なのである。

 藿香正気散や胃苓湯・平胃散加白朮、あるいは平胃散中の蒼朮を白朮に換えるなど、脾陽の損傷だけでなく腎陽の損傷や脾虚に対する配慮も必要であるが、脾虚が基礎にあっても実証が主体であることに違いはない。

 なお、ここで言う実証とは「邪実によって生じる一連の症候」という意味である。



 ●病機の呼称における記号学的な問題点

 脾湿の病変には、

@湿困脾胃
A湿困脾陽
B湿邪困脾
C寒湿困脾
D寒湿中阻
E脾虚湿困
F脾虚湿阻

など、中医学では最も常識的なこれらの病機が、書籍によっては上述のような異論や異説、あるいは混同・混乱、時には錯誤が見られるので注意が必要である。

 上記の@〜Fは、実証度の高い順に次の三種類に分類できる。

 【一】 @湿困脾胃・A湿困脾陽・B湿邪困脾の三種類は同義語に近い。急性で見られることが多く、実証に属する。

 【二】 C寒湿困脾・D寒湿中阻の二種類は同義語に近く、寒湿の邪が比較的顕著であったり、脾虚が基礎にある場合のいずれかであるが、急性で見られることが多く、実証が主体である。

 【三】 E脾虚湿困・F脾虚湿阻の二種類は同義語であり、慢性で見られることが多く、明らかに「虚中挟実」に属する。

 したがって、E脾虚湿困とF脾虚湿阻では、香砂養胃湯のみならず参苓白朮散や香砂六君子湯などの「健脾除湿」の方剤が適応となる。

 ただし、実際の臨床では【一】と【二】の中間型や、【二】と【三】の中間型も多く見られ、藿香正気散や胃苓湯・香砂養胃湯などに限らず、各種の基本方剤を加減・合方するなどすれば対処できる。

 このような平胃散から六君子湯までの類縁方剤については、脾湿という水湿内停(「胃内停水」というのは具体的な症候)の病変をキーワードとして、記号化された上述の病機類を参考にして、各自で詳細な分析・検討・整理を行い、実際の臨床における混乱を避けたいものである。

 たとえば、湿困脾陽と寒湿困脾を比較すれば、湿邪は陰邪であるから脾陽を阻遏するものの、寒邪がなければ腎陽にまで波及することは少ない。

 しかしながら、湿邪に寒邪が伴えば、脾陽を損傷するばかりでなく、容易に腎陽に波及する。

 このへんにも注意深い配慮が必要であるから、湿困脾陽に対する平胃散と、寒湿困脾に対する胃苓湯の差異として認識するのも、一つの方法であろう。

 以上の拙論は、却って初学者を混乱に陥れる恐れがあるが、現実的にはそれほど細かく分析しなくとも、適当な区分ができれば、それほどの不都合は生じない。

 しかしながら、「生体内の生命活動は言語のように構造化されている」というよりも、もともと「人体の生命活動は構造化された」ものであるから、その生命の宿る人間同士の意思疎通の道具である「言語」が構造化されていて当然であり、それゆえフランスの精神医学者、ジャック・ラカンが、ソシュールの言語学をモデルとして、「無意識は言語のように構造化されている」という命題を出発点にすることができたのであろう。

 このように、「生体内の生命活動は構造化」されているのであるから、病機の記号学的な理詰めの詮索が、実際の臨床に直結することになるので、高度な知識と分析力を獲得するには、さらに深く掘り下げた考察は避けて通れない。