漢方専門用語「証」の考察  (村田漢方堂薬局 村田恭介著)

中医学と日本漢方の接点としての「証」(異病同治追究の基礎として)

漢方薬専門の論文集 > 
         

 東亜医学協会発行の漢方専門の月刊誌『漢方の臨床』1992年11月号に発表した『漢方医学と中医学の接点としての「証」』を改訂したものですが、当時ちょうど陳潮祖教授の『中医病機治法学』をウチダ和漢薬発行の月刊『和漢薬』誌に訳注の連載を始めており、その途上、中医学原書において「証」「証候」のみならず「証状」「証象」など、紛らわしい言語の続出で、他の中医学原書においては、「証状」や「証象」は一切使用されずに「症」や「症状」となっているものもあったりで書籍によってマチマチですが、不思議にどの書籍にも日本で常用される「症候」という言葉は、ほぼ皆無なのです。気になって文字通り夜も寝られないほど、これらの言葉の訳語に悩み続け、当時はこのために何ヶ月もの間、あらゆる手元にある膨大な数の中医学関連書籍の原書をかなり徹底的に調べ上げたものでした。それらの調査と考察にもとづいて、『和漢薬』誌、1992年4月号に詳しい論説を発表した後、そのお陰で中医学と日本漢方の接点としての「証」の考察にまで発展して行き、とうとう上記の通り、そのまとめとして一応の決着をつけた拙論を発表したわけです。考察としては私自身は『和漢薬』誌発表拙論のほうが、「病機」との関連と併行したものであっただけに、こちらを先に点検・改訂して発表したいとも考えたのですが、「中医学と日本漢方の接点」としての『証』に的を絞っているだけに、むしろまとまりが良いので、こちらを中心に改訂して、掲載することにしました。いずれ折を見て、「病機」をからめた最初の考察も、必ず改訂して発表したいと考えています。そちらの方が「証」「症」などを深く掘り下げて調査・考察していますので。
 なお、「校正恐るべし!」は、洒落ではないですが、上記『和漢薬』誌に発表した1992年4月号の拙論は、筆者に校正刷りが来ない時代であったため、最も心臓部分である「証」と「症」の字を逆に印刷されるという悲劇的な拙論となっており、このために後続の号で沢山の「正誤表」を掲載してもらっています。

 なお「証と症」の問題では次のサイトを参照されたい。
中医学および漢方医学上の「証」と「症」の問題点について


   はじめに

 近年、わが国に中医学をますます積極的に取り入れるようになったが、漢方医学と中医学の相違点ばかりが喧伝されるあまり、共通点に対する認識が不足しすぎているように思われる。かく言う筆者も、過去に学習途上における止むにやまれぬ無念さから、漢方医学の専門誌『漢方の臨床』第35巻12月号(1988年)東亜医学協会創立50周年記念特集号に『日本漢方の将来「中医漢方薬学」の提唱』と題して、かなり意識的・意図的にその片棒を担いできた時期もあった。しかしながら、日本における今後の発展のためにも、意外に認識されていない共通点について述べておく必要を感じた次第である。
 まずは、本題に這入る前の布石として、従来の中医学における「証候」という用語の意味の検討から始めたい。


   中医学における「証候」の意味

 従来の中医学における「証候」の意味を検討してみると、以下の六種類のようである。
 @ 「証」のこと。つまり、疾病過程におけるその時点の一連の症候にもとづいて把握される病理的概括(疾病の本質)である。
 したがって「弁証」というときの「証」にしても、「病証」と表現される用語における「証」にしても、証候名すなわち証名や証型の意味である。
 たとえば、葛根湯証、桂枝湯証というとき、あるいは営衛不和証・太陽表虚証・表寒表虚証・風寒表証などと表現するとき、いずれも同様に「疾病過程におけるその時点の一連の症候にもとづいて把握される病理的概括(疾病の本質)」ということであり、これを成都中医学院の陳潮祖教授は「病機」としている。
 A 上記@のような、桂枝湯証や営衛不和証と表現される根拠となった症候のこと。つまり、その証の確定根拠となる一連の症候のこと。言い換えると「某証と確定するのに不可欠な一連の症候」のことを指して「証候」と表現されるものである。
 B 一般的な日本で言う「症候」のこと。中医学専門書籍類には不思議なことに「症候」という熟語はほぼ皆無に等しいが、ちょうど日本語の一般的な意味での「症候」を表現するもので、自・他覚症状を一括した意味である。つまり、中国語の「症徴」や「症状と体徴」などと表現されるときの意味と同義語として「証候」と表現されることも多い。
 C 「証候」の意味として、上記の@とAのどちらの意味にとっても間違いではないというどっちつかずの表現で「証候」がよく使われるが、意味としてはどちらに取ろうが、両者を兼ねようが、大きな誤読を誘うような問題は決して生じない。
 D それゆえCの最後の@Aの両者を兼ね、二つの意味をそのまま包括した二重の意味として「証候」が使われていることも多い。
 E病状が進展し、伝変する趨勢を示唆する意味としての「証候」。
 など、表現される前後の文意によってかなり可変的な用語なのである。
 また、主題の「証」についても「証候」の意味の中で@Aの意味と全く同様であるばかりでなく、Bも同様であり、CとDの二重性をはらんで使用されてきたことは全く同じで、従って「証」も「証候」ほぼ同じものであり、証候の省略形が「証」と考えても間違いではないのである。


   中国における「証候」の意味の統一化構想における問題点

 『中医薬学報』第5巻・第5期・1990年10月号に詳細が記されているが、中国では全国中医病名与証候規範検討会において、「証候」を前述のAとほぼ同様な意味のみに限定する統一化構想が出されている。しかしながら、「証候」の意味をAの「某証の確定根拠となる一連の症候」のみに限定しようとしたところで、@で述べたように、もともと「とは、疾病過程におけるその時点の証候(一連の症候)にもとづいて把握される病理的概括を指す」ものであるから、証と証候は不即不離の関係にあるため、どのような論文中においても、CDのような二重性の意味を完全に断ち切ることは不可能である。なぜなら、「証」という共通の漢字を使用する限りは当然のことであり、それを実現させたければ、陳潮祖教授のように証候と証を区別するために、証を「病機」に置き換える以外は不可能であろう。


   中医学における「証」と日本漢方における「証」

 本題の中医学における「証」と日本漢方における「証」については、両医学とも「最終的な治療方剤を決定するための総括」であり、要するに@に該当する「証とは、疾病過程におけるその時点の証候(一連の症候)にもとづいて把握される病理的概括であることは完璧に一致しており、相違点は病理的概括を導く方法(ものさし)と、その表現形式の綿密さに違いがあるだけであり、日本漢方も中医学で言う「弁証」を行っているのである。
 たとえば、「葛根湯証がある」と表現されるとき、この意味は「葛根湯適応の確定根拠となる一連の症候を有している」あるいは「葛根湯の適応であると確定するのに不可欠な一連の症候を有している」ということであるから、日本漢方における「証」とは、従来の中医学の「証候」のAの意味であるのと同時に、中国の統一化構想における「証候」の定義と全く一致するものであり、さらには上述のCDの二重の意味を含んだ要素を内在しているのである。


   結 語

 以上のように、日本漢方の「証」は中医学の「証」と極めて多くの点で一致しており、日本漢方と中医学の融合一体化を可能にする強力な根拠を見出すことが出来るのである。異病同治を臨床の現実として認識する日本漢方と、同病異治ばかりを発達させてきた中医学のことを考えると、これはすなわち「同病異治」の中医学が年来の追究を怠ってきたと陳潮祖教授に指摘されている「異病同治」の追究の基礎的な足がかりとなるものである。
 両医学の相違点は、病理的概括を導く方法(ものさし)と、その表現形式の綿密さが異なるだけであるから、発展的に解消して両医学の長所をとり入れた「中医漢方薬学」の創造をつねづね提唱している所以である。両医学を融合一体化するに当たってはまず、日本漢方に特有な「口訣」に対する中医学的な分析から着手するのが手っ取り早く能率的であるかも知れない。これらによって、中医学における未完成部分の多い「異病同治」に対する認識と、これにもとづく病機体系をより完成度の高いものに導く足がかりになるのと同時に、両医学の「証」の共通性がますます明確化され、実り豊かな中医漢方薬学創造の第一歩を踏み出すことができるはずである。
 吉益東洞流の古方派漢方を信奉したのちに中医学に転向してしまった経験にもとづき、筆者なりに客観的で偏見のない視点をとれるようになった現在での考察である。
 なお、『中医薬学報』に掲載された「全国中医病名与証候規範検討会」の原文資料は、東洋学術出版社の社長、山本勝曠氏より御提供頂いた。紙上を借りてお礼申し上げたい。


【参考文献】
●北京中医学院主編『八綱与八法』5頁、天津科学技術出版社(1990年初版)
●何紹奇主編『現代中医内科学』19頁、中国医薬科技出版社(1991年7月初版)
●朱文鋒主編『実用中医詞典』527頁、陝西科学技術出版社(1992年1月初版)
●伊藤清夫著「日本の漢方診療の現状と今後(29)」62頁、月刊『漢方の臨床』誌、通巻454号、東亜医学協会(1992年6月号)
●陳潮祖著・村田恭介訳注『中医病機治法学(5)の【訳者のコメント】』12〜13頁、月刊「和漢薬」誌、通巻468号、ウチダ和漢薬(1992年5月)