漢方医学発展への道 (中医学と日本漢方) 村田恭介著

異病同治の日本漢方と、同病異治の中医学を合体した『中医漢方薬学』

漢方と漢方薬の論文集

 本論の元版は1990年に『中医臨床』誌の9月号(通巻42号)に発表した
中医学と日本漢方の接点としてのエキス剤」です。
 
 当時から常々提唱していた「中医漢方薬学」論のひとつでもあり、エキス製剤でも充分な効果が得られることも実証したかった面もありました。

 初期の10年近く日本漢方の吉益東洞流の学習と実践の後、中医学に転向しましたが、日本流時代は煎薬ばかりに拘泥していたのに、中医学派に転向後は煎薬に拘らず、むしろ積極的にエキス製剤等の既製品に力を入れるようになりました。

 その理由は中医学理論および中医方剤学のみならず中薬学を知れば知るほど、代替方法を考えることは知識と技術を磨く上で、如何に重要かということを知るのと同時に、煎薬を製造することで多くの時間を奪われるくらいなら、悩める方々のお話をじっくりお聞きし、西洋医学の先生の診断等のご意見も参考に適切な漢方薬をアドバイスして差し上げる方が、遥かに重要ではないかと愚考した面と二つの要因がありました。

 ともあれ、本論も日本漢方を中国漢方に吸収合併させるべきとの年来提唱の「中医漢方薬学」論の一つに変わりはなく、両医学の長所と短所を挙つつ、その両医学の接点としてのエキス剤を論じたものでした。

 しかしながら、平成17年の現在、改訂を何度も試みるうち、論旨の途中からどんどんとウエイトが「異病同治」の理論研究の必要性を論じることに力が入り、あらためて日本古方派の優れた面には大いに再認識するところがあり、元古方派として著者自身が昔お世話になった古方派の漢方専門の先生方に、少しは恩返しが出来るかもしれない拙論となり、ホッとしている次第です。

 それゆえ、結局は大幅な改訂版となってタイトルまで変えずにはおれなくなりました!もともとのタイトルは『中医学と日本漢方の接点としてのエキス剤』でした。

 結果的に「漢方医学発展への道」としての、大きなルートを開拓したのではないかと、いささか、誇大妄想的な自負を抱けるような結論が導かれたことと信じています。

 例によって本論発想のきっかけは、やはり(日本漢方に対する言及は一切無いものの)陳潮祖教授の『中医病機治法学』に多くを負うものでした。


   はじめに

 中医学の特長の一つに、手元に充分な中草薬がない場合でも、弁証論治にもとづいた代替品を利用することで、一定レベルの治療効果を確保することを可能にする融通性がある。
 
 たとえば、天麻が手元にないとき、肝風内動による痙攣や震えには釣藤鈎、白彊蚕などで代用し、肝陽上亢から生じた眩暈・頭痛などでは代赭石・石決明で代用する、といった類である。

 数ある中医学の特長のなかで、このことは一見些細なことのように思えるが、限りある天然資源のことを思うと、日ごろから代替品の研究と応用は必要であると思われる。
 そして、その一つの代替の方法として漢方処方エキス製剤等の既製品を利用して多くの疾患に対処することで、一定レベルの治療効果が確保できるものなら、服用者の便利さとともに、薬剤師の調合業務の能率向上の点からも望ましいことではないかと愚考するものである。

   
   基本方剤の模倣

 たとえば一つの問題として、中医学における基本方剤を、日本で製造されている漢方処方エキス剤などの既製品だけで代用することは不可能なものであろうか。

 血府逐瘀湯を使用したいとき、四逆散合折衝飲各エキスの合方で、地黄・桔梗が不足しているものの、一応の基本的な効果は充分に期待できるようである。
 一般的にも既に広く行われている気虚血瘀に対して、補中益気湯合桂枝茯苓丸料各エキス合方などは、ときには補陽還五湯の代用品として通用できなくもない。
 桃紅四物湯などは、桂枝茯苓丸料合四物湯各エキス合方。天麻鈎藤飲は、釣藤散料合黄連解毒湯合六味丸料各エキス合方。
 独活寄生湯は、疏経活血湯エキスと海馬補腎丸との合方など。

 一部は牽強付会に過ぎる感はあるにせよ、弁証論治の基本から大きく外れなければ、代替品としての利用価値は計り知れない。

 最近も慢性化膿性骨髄炎で足に腐骨があり表皮に漏孔を作って膿が微量ずつ排出し続け、思うように入浴も儘ならない状態の患者さんに、日本でも良く使用される托裏消毒飲の代替として、玉屏風散エキス製剤に金銀花入りの荊防敗毒散料エキス製剤に白花蛇舌草の併用で一年半、基本的に漏孔も早くから塞がり安定した状態が続いてる。
 充分以上の代替となり、むしろ托裏消毒飲よりも効果的なのではないかと愚考しているところである。
 もちろん病院では手術によらないと不治というのを漢方方剤の配合により、寛緩状態にまでは充分に持ち込めているわけである。


   日本古方派の特徴と特長

 日本の古方派について、中医学派が注目するに値する点あるとしたら、基本方剤をあまり手を加えずに徹底的に応用しようとする精神であろう。

 基礎理論の点で多くの問題があるにせよ、一つの基本的な方剤を大切にする精神は、ともすれば実際の臨床時において、基本方剤の考察を忘れがちな中医学派にとっては、よい警鐘となるかも知れない。

 たとえば、少しは経験を積んだ古方派にとっては、桂枝茯苓丸料エキス単方のみによって、一人の女性患者に合併する気管支喘息・頭痛・吹き出物・乗り物酔いを同時に治癒あるいは軽快させる類のことは、それほど珍しいことではない。

 同じように柴胡桂枝湯エキス単方によって、小児喘息・夜尿症・自家中毒を同時に治癒あるいは軽快させることなどは比較的多いものである。

 さらに、古方派の行う経方単方による難治性疾患に対する治療例については、十分注目に値すると思われる。
 古方派の投与した方剤がどうして著効を奏したか、中医学的にはどのように解釈・分析が行えるのか。
 私自身の課題としても、過去に経験したことでありながら、桂枝茯苓丸料による気管支喘息等の多種合併する症候が治癒したメカニズムを中医学的に十分解明する能力を持てるようにならなければ、過去、日本の古方派漢方家であった経験を活かすことができないと思っている。

 もちろん、構造主義科学の一つであり、世界に誇れる構造主義医薬科学である中医学理論を駆使すれば、分析・解明の論文を書くことはそれほど困難なことではないのだが、それはどうしても「あと知恵」的な感は免れないのである。
 なぜなら、最初から弁証論治の病機分析から気管支喘息患者に桂枝茯苓丸が割り出せる確立はほとんど有り得ないことと愚考する。
 後に述べる「異病同治」の世界である日本古方派特有の発想にもとづく経験医学でなければ、思いつきにくいはずであろう。

 ともあれ、蛇足ながら最近経験した筆者の桂枝茯苓丸料エキス剤による二例をご紹介する。
 日本古方派にとっては全く当たり前の発想であるが、中医学のみの習得だけであったら自分自身、桂枝茯苓丸の発想はもっと遅れていただろうという経験である。

 57歳の男性のトラック運転手が、腰痛および左足の先まで走る電気的なシビレ感が強烈で、仕事に差し支えるが、医師は神経の圧迫だから手術すれば治ると勧められている。

 しかしながら、仕事を休めないので、定年までの「つなぎ」でよいから何とか症状を緩和して欲しいとの要求である。足先が冬でも火照る体質で、舌象からの肝腎陰虚に瘀血阻滞が明白であるから風邪を兼ねると見て、「現症の病機」だけに忠実に合わせたつもりの知柏腎気丸製剤に疏経活血湯製剤の合方で全く効果が無い。足部の火照りが解消しただけである。
 そこで過去の病歴を再度考慮し、40年前に足腰を強打した事故経験に照準を合わせ、まずは桂枝茯苓丸料エキス散のみの単独で、わずか10日間の服用で、かなり軽快。
 さらに雲南田七で補強することにして更に良好。古方派時代の経験のお陰で、かろうじて面目が保てた次第。

 もう一例は70歳を越える男性。
 10年以上前に長年の重度の坐骨神経痛を独活寄生湯エキス製剤と疏経活血湯エキス製剤に当時はまだ使用できた虎骨製剤に地竜エキス製剤の四者併用で長年の悩みが半年くらいで解消していた。
 最近(平成16年秋)健康法とて腰をひねる体操を始めて一週間、久しぶりに再発してしまったとて。前ほどはひどくないが歩くと攣って辛いと言う。
 疏経活血湯エキス錠と雲南田七の併用では殆ど効果がない。そこで、腰の捻挫でしょうとてこれに桂枝茯苓丸料エキス散を加えて即効があり、現在かなり楽になっている。
 


   「異病同治」と「同病異治」

 ところで、敢えて極論させて頂ければ、中医学は「同病異治」の医学であり、日本の古方派漢方は「異病同治」の医学であると思われるのである。したがって、中医学は『金匱要略』を発展させたものであり、古方派漢方は『傷寒論』を日本独自の発想で応用・発展させたものであると言えるのである。
 成都中医学院の陳潮祖教授も一部指摘していることであるが、中国における『傷寒論』の研究は、過去の日本人の研究者の数を遥かに上回る多数の人々による成果が堆積しているはずであるが、いったい「異病同治」に対する研究が、十分になされて来たと言えるのであろうか?
 張仲景は『傷寒論』において、外感疾患の伝変法則を検討する形式を取りながら、「臓腑経絡を綱領として病機分析を進める方法」の道を開き、世に知らしめた。一方、『金匱要略』においては、『傷寒論』と同様に臓腑の生理・病理を根拠としているものの、病の種類別に病機を検討する形式を取っている。したがって、『金匱要略』においては『傷寒論』では存在しなかった「病名分類」が重要な位置を占めている。このようにして仲景は『傷寒論』を経とし、『金匱要略』を緯として、二書を縦横に連繋させ、以後の中国伝統医学における道標(みちしるべ)となる模範を示した。
 ところが、金元時代からは学科の分科が始まり、それ以後は病名別に病理を探究する方式が中心となり、『金匱要略』を基礎とした「同病異治」の理論研究が主体となったまま現在に至り、そしてそれがそのまま現代中医学の基本的な特徴とさえなった観を呈しているようだ。つまりは「それぞれ異なった病機に同一の症状が出現する」ことに対する治療方法の研究という同病異治の研究が、現在に至っても中心的な研究対象となっている現実は否定できないのである。
 反面では「同一の病機においても多種類の症状が出現する」ものであるが、この「異病同治」に対する明確な概念の追究は明らかに遅れを取っている。仲景が示した模範を十分に発展させて来たとは言い難く、一面的な発展方向にあった過去から現在までの状況を指摘せざるを得ないわけである。
 以上の論点は、何度も言うように陳潮祖教授の指摘による部分も多いので、筆者一人の独断だけとは受け取らないで頂きたいものである。


   中医学と日本漢方との接点

 ひるがえって、基礎理論が不完全で中国伝統医学(中医学)のような本来最も基礎的な部分を形成していたはずの「陰陽五行学説」という構造主義医科学の根本を捨て去ってしまった日本古方派にあっても、日本漢方なりの独自の『傷寒論』研究により、「異病同治こそ臨床的な現実である」とした臨床実践が多く行われて来た事実には注目する必要がある。たとえそれが吉益東洞が出現するまでは日本の後世方派も共通の基礎理論であった陰陽五行学を捨て去ったものであっても、現在も行われている、結果が伴う実践力があったことは歴史が証明していることである。
 「異病同治」の基本理念は、前述のように『傷寒論』が鍵を握っているわけで、それゆえ日本古方派の『傷寒論』に対する精神と臨床実践は、中医学派にとって「異病同治」に対する有益なヒントを与えるものとなろう。日本の古方派の難治性疾患に対する著効例を中医学的に詳細に分析して解説できるようになれば、自ずから「異病同治」の本質がどのようなものか、それら基本概念の更なる追究に大きな示唆を与えるに違いないのである。
 ただし、この作業にはお互いの派、つまり中医学派と日本古方派の協力が必要となるだけに多くの困難が予想され、以前本論の元版ではこれらのことを力強く訴えていたが、その後もそのような動きは見られない。そんなことなら元日本古方派出身の筆者自身がやればよいことだから、もう以前のような訴えかけは止めることにした。
 ところで最近、傷寒・金匱の経方ばかりの中医師による解説と症例集の翻訳書を手に入れたが、一番の指標となる「桂枝茯苓丸」を調べると、やはり日本古方派的な応用は皆無であった。筆者が日頃、三文のように利用する方文賢編『中医名方臨証秘用』(中国中医薬出版社)には、日本古方派特有としか思えない様々疾患、婦人科系疾患・前立腺肥大・甲状腺腫・肝炎は当然として、腰痛・痺証・気管支喘息・慢性腎炎・高血圧・血栓性静脈炎・慢性肺水腫・外傷感染・下肢潰瘍・脱疽・メニエール氏症候群・鼻出血:慢性副鼻腔炎・中心性網膜炎等々、まだまだ沢山の応用面の記載があるが、日本漢方の文献も相当参考にされている書籍であるから、純粋に中国における中医師の経験報告とは思えない。
 やはり、今(平成17年1月)にして思うことは、経方の応用に関しては、つまり「異病同治」の臨床実践に関しては、日本古方派漢方は中国のみならず世界に誇っても良いのだと、あらためて実感しているところである。


   中医学の一部であるべき日本漢方

 ただし、ここで特に指摘しておきたいことは、日本の漢方も中国の伝統医学に「復帰」すべきであり、したがって日本の古方派も中医学の中に包括されるべきものである、ということである。
 そもそも、ときに言われる「日本の伝統医学」という表現は、ほとんど間違った表現であり、本来、日本でも中国の伝統医学を輸入したものであり、とうぜん同じ医学・薬学であったものを、江戸期に吉益東洞がブチ壊しにしてしまったのである。東洞批判の詳細は拙論『日本の将来「中医漢方薬学」の提唱』(「漢方の臨床」誌 第35巻12号 東亜医学協会創立50周年記念特集号)で述べた通りである。
 このままでは日本漢方は世界の異端児のままであり、さらには現実にみられるように、「西洋医学化」という名のもとに、いよいよ邪道の道に迷い込み、いよいよ本質を忘れた似非東洋医学に堕するのみである。東洋医学、とりわけ漢方の世界において、「日本の常識は、世界の非常識」と言われている現実をもっと認識して欲しい。
 日本漢方も本来あるべき中国伝統医学の一部として、中医学という構造主義医薬科学の基礎である陰陽五行学説を再認識し、上述したように「中医学」の弱点、「異病同治」の世界を知らしめるのと同時に、中医基礎理論を取り戻して「構造主義科学」のレベルにまで復帰すべきなのである。
 


   「異病同治」を追究する意義

 「異病同治」の概念を明確にしていくことの意義は、『金匱要略』方式では病気の種類別で病機分析を行う方法では、単に病機における横並びの関係をあらわすのみであり、検討される病の種類には限界がある。『諸病源候論』記載の病名1720則すべてを網羅することは不可能である。ところが『傷寒論』方式では、臓腑経絡を大綱にして病機分析を行う方法であるから、簡便な方法によって複雑な病態を整理でき、無限のあらゆる病変に対処できる。傷寒論研究者は注釈を施すのみで、『傷寒論』を模範とした研究を怠り、病機体系を発展させ完全なものに近づけようとはしてこなかったために、臓腑の生理・病理を大綱とした縦向きの研究、すなわち「異病同治」の理論については、却って見慣れないものになり、明確な概念の把握を困難にしている、というのが名著『中医病機治法学』の中で陳潮祖教授の指摘されるところである。

 それゆえに、日本古方派が長期にわたる臨床実践で得られた成果の中医学的分析は不可欠なのである。日本特有の「口訣集」なども相当に参考になるはずである。このように、陳潮祖先生が中医学に不足していると言われる「異病同治」の発展と完成を目指せるのは、この日本国内であるのに、筆者が知る限りでは、まだ今のところ誰も手を出そうとされていないようで、大変惜しいことである。
 このように経方が中心となっている日本の各種エキス製剤にも応用範囲がさらに広がり、中医学と日本漢方の接点としてのエキス剤が光り輝いて来るのである。


   むすび

 漢方専門薬局を経営して32年。吉益東洞流を10年やって基礎理論の皆無に等しいひどさにとうとう見切りをつけ、中医学派に転向したものの、東洞流に苦言を呈し続けながらも、「異病同治」を臨床の現実として当然視する日本漢方の鋭さにも無意識に気付いていたのか、結局は「異病同治」の日本漢方と「同病異治」の中医学を合体して「中医漢方薬学」論を提唱せずにはおれなかった筆者である。中医学的な「異病同治」の分析は、私こそやるべきではないかという天の声が聞こえて来ないでもないが、そこまでのエネルギーが残っているのかどうか?平成17年1月11日の早朝、思案しているところである。